公園で”結婚”について考えみた

ハトと向き合って、結婚のことを考えている。なぜか。

それは朝起きたら晴れていて気持ちよかったからだ。

そういう気持ちいい日は、何かいいことをしたくなる。

たとえば観葉植物に水をやってみるとか、老婆をおんぶして横断歩道を渡ってみたりとか。

しかし私の部屋には観葉植物など一本も生えていないし、街に出て老婆をおんぶして骨折でもしたら警察沙汰になるのでやらない。

なにをするかを顎をしゃくらせながら30秒ほど考えていたら賞味期限が切れかけの食パンがあったことを思い出す。

ハトに食パンをやりにいこう。

そう。思い出したのだが、私は幼少期、ハトに食パンをやる名人だったのだ。保育園に通っていた頃、その天性の人見知りが故、友達が一人もできず、せっかく「あーそーぼー」と安岡くんに言われても、恥ずかしくなって走って逃げていたほどのシャイボーイ。いつも園庭の隅っこでハトと遊んでいたのであった。

あの頃の自分に戻るのだ。尾崎豊を「15の夜」を「5の夜」に替え歌しながら、自転車に乗って、渋谷区の大きな公園へと向かう。ハトの集団にうれしそうな顔をして突っ込んでいく私は、端から見ると何に見えたのだろう。

ベンチに腰をかけ、おもむろに、賞味期限の切れかけのヤマザキ「超芳醇」をちぎりだす。「超芳醇」のパッケージを見つめていると「何が超なのだろう」という疑問が頭のなかに広がりだし、もしからしたら「超」は名字なのかとも思ったが、下に「ほんのり甘くて、もっちりおいしい」と書かれているので、その「もっちりさがすごい」というところから発案されたネーミングなんではないか、と一人会議をしていると、ハトがどんどん集まってきた。

ハトにエサをやっている時間は、自分自身と向き合っている時間である。ハトに向き合うことが、自分と向き合うことなのだ。だからハトが自分に見えてくる。自分がハトに見えてくる。ハト・イズ・ジブン。

ハトに餌をやりきった私は、まるで射精し終わった猿のようにベンチにぐでんとなっていた。賢者タイムである。賢者の私はあほの人みたいに口をぽかんと開けて、行き交う人々を見つめることにする。

トリスウイスキーを持った赤ら顔のおっさん。頭の賢そうな夫婦。汚い茶髪と穴の空いたジーンズのカップル。フォトジェニックさを追求している家族。白い日傘をさした主婦。ビニール袋を下げた浮浪者。髪型が同じ若者たち。顔がブサイクなところが共通点である家族。45歳経営者風男性と、その愛人のホステス風女性。またトリスウイスキーを持ったおっさん。いじめることを愉快にやるタイプの子供。

みな幸せそうだなあ。私もハトにエサをやっているときは幸せだったはずだ。しかしなぜかいま不幸を感じている。幸せそうな民と不幸な私を分かつ事実は、私が「家族」をもっていないということだ。「家族がいないから、あいつはハトに餌をやっている」、きっとそう思われているに違いない。そう考えるやいなや、自分の存在自体が恥ずかしくなり、「ハトになりたい!」と思った。いや、家族が欲しくなった。

晩婚化・非婚化・少子化が進んでいると、世の学者やメディアは言う。しかし目の前に「具体版・幸せな家族計画」を見せられると30を超えたおっさんにはこたえる。泣く。泣きはしないが、ため息をつく。ハトにエサをやりたくなる。だからハトと向き合って結婚のことを考えるはめになったのだ。

私はそこで挫けるような人間ではない。辛く血反吐をはくような社会人業務で、「ポジティブシンキング」を身に着けてきた。そう。いかに前向きに考えるかが大事なのだ。頭の薄くなって額にギトギトの油を載せた私の最初の上司はそう言っていた。だから私は財布を落としても「誰かがよろこんだはず!」と笑顔になれるし、恋人に浮気されても「他の男がホクホクしてるはず!」と思い込むことができるのだ。理論上。

独り身の私だからこそできることがあるのではないか。そう考える。
あ、ウイスキーを持ったおっさんと目が合った。そらした。

冷静になった私がそのとき考えたのは、どういう結婚が幸せか、ということである。
私は基本的に根が暗く根性が悪いので、人のことをじろじろじろじろと観察している。
中学時代、誰も気づかなかった、社会科の教師の7:3分けが3:7わけに変わったことにも気づいたくらいだ。だからこれまでに会った膨大な夫婦に関しても脳内の貧弱なメモリにしっかりと保存してある。

「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」
−『アンナ・カレーニナ』トルストイ

おそらく不幸な夫婦には、いくつかのパターンがあるのだ。

 

「情緒不安定な配偶者」

私の周囲で結婚後、「不幸の底なし沼」にハマっているのはこのパターンである。

夫でも妻でも、どちらでもありうる。一方の感情が安定せず、もう一方は、獰猛な動物を家の中に飼っているような恐怖に怯えながら暮らしているという。ある外資系企業で働く知人女性は、結婚するまで旦那にDVの気があることには気づかなかった。だが結婚し、ともに暮らし始めた直後から、ものを投げる、罵倒する、皿や茶碗を割る、料理を食べずに捨てる、大声で喚くなどの家庭内暴力を振るわれ、別居の末やっとのことで昨年離婚した。会ったときにアザを見せてもらったことがある。

また大学の友人男性は、結婚後、東日本大震災をきっかけに奥さんが情動不安になり、突然泣き叫ぶ、家を出て行く、スピリチュアルなものに大金をつぎ込むなど、コントロール不能な状況が出始め、今は別居して暮らしている。奥さんは働いていないので、生活費をまるまる負担しているという。このようにメンタルに関する問題は、パートナーともども不幸にする大きな原因のひとつだ。

 

「仕切りたがる配偶者」

「情緒不安定な配偶者」に比べると、まだましであるが、傍から見ていると大変そうだ。その要因は徹底的な小遣い制である。

東大の法学部を卒業しメガバンクに入社した友人は、現在一日500円の昼食代しか持たされていないという。
彼は同じ銀行に一般職で勤めていた年上女性と結婚したのだが、その後、ストイックな小遣い制を敷かれるにあたっては、給与や会社の仕組みをすべて把握されてることが災いしたと述べている。飲み会や交際費に関しては都度申請して受給しているが、それ以外の費用はすべて貯蓄と保険に回されている。年末に会ったときに「毎日、嫁と子供が寝静まった後、i-padを取り出してマスターベーションするのが唯一の楽しみだ」と言っており、かわいそうに思ったので、一緒に風俗に行って、お金を払ってあげたら泣いて喜んでいた。これからもそういう慈善活動はしていきたい所存である。

 

「競争心の強い配偶者」

いわゆるバリキャリ男性・バリキャリ女性と結婚すると、社内競争はおろか、家庭内競争に疲弊することになる。

私の観察によると、どちらかが折れなければうまくいかないようだ。私の同僚も、「仕事ダイスキ♡」の2人が結婚し、子を授かった時点で、労働争議が開始された。「私は給料をこれだけ稼いでいる。ゆえに、やる家事の量はこのくらいが妥当である」というような議論を喧々諤々とやっている。バリキャリの奥さんというのは、男よりも闘争心が強いことも多く(当然、他の男の同僚より優秀だったりする)、男側が折れている側も多い。つまり男にとっては妻の仕事を優先させ、自身の出世を諦めるということだ。外資系戦略コンサルファームに努めていた友人男性は、奥さんの出産後「ワークライフバランス」を重視し、名も知らぬ製造業に転職した。給与は3分の1になったという。このパターンは決して不幸とはいえない、自分の人生設計を再度考え直す必要が出てくるパターンだ。

 

「生理的に無理な配偶者」

いるよね。たくさん。「じゃあなんで結婚したんだ」って聞きたくなるけど、たぶん聞いちゃいけないんだよ。「大変だよなぁ」と相づちをうって安い日本酒を飲むくらいしか俺にはできない。体重120kgにもなる先輩は「嫁がもう一緒に寝てくれない」と嘆いていたし、ジジイの医者と結婚したキラキラ女は「NO SEX LIFE!」と豪語していた。生理的に一度無理になると、男も女も、もう無理らしい。一生の関係を誓い合うということの意味を考えさせられるよね。

 

未来の妻よ、あなたはどんな人なのですか。

気づくとウイスキーを持っていたおっさんはベンチに寝っ転がっており、私の前にはハトがまだうろうろしていた。

私は未来の妻を探すため、まず、マトリックスをつくることにした。

その際、横軸を【依存心⇔独立心】、縦軸を【共創関係⇔競争関係】に設定した。

できあがったのがこの図である。

キシリトールを噛みながらこの図を見ていたら、腹が痛くなってきた。あとで調べたら「キシリトールってお腹がゆるくなることがあります」って書かれてる。ガムごときにやられる私の腹を思いながら、1にメンタルの安定、2に干渉の低さなんじゃないかしらと結論して、汚い公衆便所に向かったのだった。

 

やはり健康が一番である。

 

 

おしまい

 

ネットビジネスの教科書として、MEDIA MAKERSを読んでみる

田端信太郎 著 『MEDIA MAKERS-社会が動く「影響力」の正体』を読んだ(再読)。

2012年に発売されたこの書籍は、インターネットを中心とするメディア環境の変化を述べた書籍として、評価されている。著者は2017年現在、LINE株式会社上級執行役員の田端信太郎氏。
Twitterでも10万フォロワーを持っているような現代のインフルエンサーである。

私はこの書籍を、メディアの教科書というよりは、SNS時代のネット人格醸成のための教科書として読んだ。

目次の一部を抜粋する。

・「キャッシュ」から「タレント」と「アテンション」の時代へ
・「アテンション」を集め、「タレント」をモチベートするメディア
・コミュニケーションとクリエーションは似て非なるもの
・誰もがメディアになり得る「情報爆発時代」
・なぜ、「缶けり」専門誌は存在し得ないのか?
・上場廃止に向かうライブドア社内で見えたこと
・源氏物語からニコ動までコンテンツを分類する3次元マトリックス
・「食べログ」と「ミシュラン」の違いから考える参加性と権威性
・映画監督はなぜ「偉い」と思われるのか?
・「ペルソナ」があればコモディティ商売から脱却できる
・「FT」の紙がピンクなのはなぜか?
・編集権の独立−高潔さがメディアの差別化要因
・技術が進化しても記者の使命は変わらない…は間違い!
・馬具メーカーであることをやめたエルメス
・津田大介、ホリエモン、「お布施型」メディアが流行る理由
・雑誌がオーケストラなら、メルマガはロックバンド

昨今のネット界隈のビジネスに感度のある人であるなら、興味深い構成であることには頷いてもらえるかと思う。いくつか有用だと感じた概念があったので以下に紹介したいと思う。

 

メディアを8つに分類する3次元マトリックス

なかでも特に有用だと思ったのは、コンテンツを分類する3次元マトリックス。

①ストック⇔フロー
②参加性⇔権威性
③リニア⇔ノンリニア

この3軸で、コンテンツを分類するとあらゆるネットコンテンツの立ち位置が明確になる。

 

たとえば、

Wikipediaは、①ストック②参加性③ノンリニア
日経新聞は、①フロー②権威性③ノンリニア
ビジネス書は、①ストック②権威性③リニア

というふうに分類される。

これをネットビジネスにどう使うかという視点であるが、自らが弱い部分を意図的に補うための戦術を考えて行くのがいいだろう。

たとえば、twitterだけの人気アカウントは、①フロー②権威性③ノンリニアなので、逆に①ストック②参加性③リニアを意識したコンテンツを生成することで一気に他を出し抜くチャンスになる。

たとえば、フローのtwitterとストックのブログとは、相互補完関係があるメディアなので、戦略的にネットでキャラをブランディングしようとするなら、twitterとブログは連携させるべきだ。

オンラインサロンとnoteは参加性と権威性の部分が大きく異なっており、権威性を使ってオンラインサロンを立ち上げるとただの質問大会になって運営者は疲弊する。ゆえに、知識部分はnoteやメルマガで教授し、フォロワーたちとの交流にオンラインサロンを使うのがベストである。

このあたりの話はつねづね副業ラボのツイキャスなどでもやっているのだが、
結構理解していない人が多く、twitterでやたらめったらnoteのリンクを呟けば売れると思っている人が多い。

 

メディアをブランディングするために必要なのは編集権の独立

メディアというものが、経済的・法律的には送り手である企業の「所有物」であることは紛れもない事実です。しかし、そもそもメディアとは送り手と受け手をつなぐ「媒体・媒質」のことであり、受け手に影響を与えないメディアには存在意義はありません。それゆえ、送り手企業の経済的利益をはかることを第一の判断軸にして、メディア運営における編集判断がなされることは、必ずや、読者の離反を招き、結果的に送り手企業の所有物としての「企業価値」や「資産価値」も破壊してしまうことになるはずなのです。

(「編集権の独立−高潔さがメディアの差別化要因」)

ここでも解説されている通り、メディア(コンテンツ)の信頼度は、行ってしまえば「売らんかな」の精神からの独立性にある。自分の記事を売りたいから提灯記事を書いていると思われたらメディアは終わる。このへんは自戒でもあるわけだが、なるべく自メディアの儲けとは切り離された部分で有益な記事を買いてメディアとして信頼された上で課金モデルをまわしていくほうが、永続的な運営につながっていくはずである。

 

メディアのオリジナリティを追求するためにペルソナを意識する

読者の「ペルソナ」をわかりやすく外部に体現するアイコンとしての表紙専属モデルや、読者層を指す造語の対外的なアピールになります。たとえば、「LEON」という雑誌は、「ちょいワルオヤジ」という言葉で、彼らの読者ペルソナをうまくラベル貼りしてパッケージングし、そして、その「ちょいワルオヤジ」を体現する存在として、ジローラモさんを表紙モデルに用いました。「CanCan」は、ゆるふわ愛されOLというように読者のペルソナにラベル貼りし、それを「エビちゃん」というキャラで体現したわけです。(中略)この広告主に向けて語られる「読者ペルソナ」の設定が、広告主の脳内に呼び起こす「ああ、このメディアの読者は、ウチの製品のターゲットユーザーと近いな!」というシズル感が強ければ強いほど、広告メディアとして、単なる「クリックいくら? インプレッションいくら?」のコモディティ商売からの脱却も可能になりやすいと私は確信しています。

(「ペルソナがあればコモディティ商売から脱却できる」)

ここにも書かれているが、雑誌メディアを運営していた著者だけあって、ネットメディアが手薄になっている部分を的確に指摘している点はお見事である。とはいえ、軒並み衰退する紙メディアをどうするべきかというと別の話になるのだが。従来の雑誌は、読者のライフスタイル像みたいなものを事細かに仮定し、調査し、かなり突っ込んだ提案をしていた結果、カルチャーを生み出せていたのだと私は考えている。単なるネット調査ででてきたイメージに「当てに行く」記事ではなく、フォーカスインタビューや読者とのコミュニケーションを通じてあぶり出されてきた潜在ニーズを鮮やかにコンテンツとして表現してあげること、これができればネットメディアであっても、きっと新たなカルチャーを生み出すことができるはずだ。実際、インスタグラムがこれまでの雑誌メディアの役割を果たしはじめている。憧れられるような強烈なライフスタイルを発信しつづけるものはメディアでも個人でも、確実に時代をつくっていくのである。

 

書かれた当時の熱量を感じながら冷静に読むとメディアビジネスの未来が見えてくる

3年前に読んでみたときよりもMEDIA MAEKERSは学びが多かった。それは、自身でtwitterやブログ、noteやオンラインサロンなどのメディア運営をやってみて、各種経験を棚卸しすることができたからかもしれない。ぜひ、ちょっとだけでもメディアを持っているという方(twitterアカウントを持っていたり、ブログを書いているという方)は、ネットビジネスの視点でこの本を読んでみてほしいと思う。2012年当時からメディアの何が変化し、何が変わらないのかに焦点を当てながら読むことで、メディアにまつわる潮流の本質をつかむことができると考えます。

 

 

おしまい

 

 

文献リスト

・『MEDIA MAKERS-社会が動く「影響力」の正体

 

 

 

 

 

 

失敗を味方につけると、人生は成長軌道に乗るらしい

失敗が好きである。

失敗にはヒントがたくさんつまっている。失敗を無視するのではなく、失敗を分解して考えてみる。そうすると思いもよらなかった発見がある。「失敗」に対してうまく立ち回ることで人生を明らかに好転させることができる。失敗をテーマにしたいくつかのコンテンツを紹介してみる。

 

1)失敗への恐怖は「対策可能」である

失敗への恐怖が生じたとき、「失敗の結果、最悪の出来事はなにか?」ということを自分に問うてみる。そして、その問いへの思いつく限りのすべての答えを箇条書きにする。すべての答えをながめ、その結果「自分は生きていられるかを判断する。もし、生きていられるなら、GOサインを出そう。

But my response to the dread of failure is a little different. I ask myself, “What’s the worst that can happen if I fail at this?” Then I make a list of all the answers — every last one I can think of. Then I review each answer and decide if I can live with that result. If the answer is yes, I go for it.

Small Failures Can Lead to Big Successes

 

ビジネスでも、人間関係でも、恋愛でも、勇気を出す局面に立ったら、気合をいれるよりも、失敗したときの最悪の事態を想定する。そしてiPhoneを取り出し、それを箇条書きにする。

ほとんどの場合は、「なんだたいしたことじゃないな」という感想を抱くはずだ。もし、「失敗したら、ヤバイことになりそうだ」という印象を抱いたら、迷わず退却しよう。事前に対策を打ってからでも遅くはない。

島田紳助は「つねに最悪の事態を想定しながら生きている」とあるテレビ番組で述べていた。「マイナス思考」や「ネガティブ思考」は意識高い系の人々には一蹴されがちだが、真の戦略家は極限までマイナスを想像してそれをプラスに転じるのだと理解している。

 

2)イチロー流・失敗からのヒントをつかむ方法

私が好きなエピソードは、イチローが松井との対談で「凡打をヒントにする」と語った部分だ。

打つつもりがない球にカラダが反応することにより陥ったスランプ。メジャー3年目の春、ファウルフライを売った瞬間「凡打の中にスランプ脱出のヒントがあった」とイチローは言う。

失敗を見つめると「どうして失敗するのか」という原因が見える。逆に「どうしていい当たりがでるのか」というふうには考えると、できなかったときにパニックになる。そうイチローは語る。

 

 

大学時代、個別指導塾で講師をやっていたとき、私はいわゆる偏差値の低い子を担当させられることが多かった。他の教師以上に成績を劇的にあげることが多かったからだ。それは私が彼らのできない部分に着目していたからだと、この対談を聞いて思い直した。「できる人がやるとおりにやりましょう」でも半分くらいの人はできる。しかしそれでも「できない人」には致命的に躓いているポイントが存在し、そこを意識化して補助してあげることで劇的な改善が見られる。

たとえば、国語の成績がとても悪かった男の子がいたのだが、私はその弱点を「読解力」ではなく「語彙力」と認識し、語彙の特訓をした。具体的には熟語の書き取りと意味を毎回テストするという方法だ。すると彼は半年後、コンスタントに90点以上を叩き出し、国語が最も得意な科目となった。希望の中学にも合格し、ご両親からは高いお鮨をごちそうになった。

逆上がりのできない子を見たこともある。大抵の子は補助器具を使えばできるのだが、その女の子は周りの子にくらべて明らかに腕が細かった。私は腕の力をつけることを目的にして、斜め懸垂を週3回するように指導した。3ヶ月後、彼女はなんなく逆上がりができるようになった。

私がやっている恋愛コンサルティングも対象者は童貞や経験が少ない初級者だ。彼らには「できるようになるやり方」を示すとともに、「なぜできないのか」についてのポイントの指摘も行っている。たいていは自己流でなんとかなると思っていた部分が致命的にマズく、一部のやり方を修正するだけでうまくいくパターンが多かった。

おそらくイチローは、「できるとき」と「できないとき」の差異を抽出し比較し、長期的にコンスタントに結果を出し続ける方法論へとフィードバックしているのだと思う。

 

 

3)体系として「失敗学」を学ぶ

 

失敗学のすすめ 畑村 洋太郎

失敗を、未知との遭遇による「良い失敗」と、人間の怠慢による「悪い失敗」の2種類に分け、「良い失敗」から物事の新しい側面を発見し、仮想失敗体験をすることで「悪い失敗」を最小限に抑えることを方法論として問いている。財布を落としてしまったときに後悔するよりかは、なぜ落としてしまったのかを考え、二度と落とさないためにはどういう仕組をつくればよいかを考える。転んでもただでは起きない精神を学ぶことができる。

日々、挑戦して失敗する。それがヒントになって、新しい世界が切り拓ける。失敗は避けるのでなくて、自ら選び取るくらい実りあるものなのである。

「こうすればうまくいく」といういわば陽の世界の知識伝達によって新たにつくりだせるものは、結局はマネでしかありません。ところが、「こうやるとまずくなる」という陰の世界の知識伝達によって、まずくなる必然性を知って企画することは、人と同じ失敗をする時間と手間を省き、前の人よりも1ランク上の創造の次元から企画をスタートさせることができます。

「よい失敗」とは未知への遭遇の中に含まれるもので、細心の注意を払って対処しようにも防ぎようのない失敗を指します。(略)未知による失敗はいたずらに忌み嫌うものではなく、文化をつくる最大の糧として大切に扱うべきです。

誰も到達したことのない未来に行こうとする場合、失敗はつきものであり、それを恐れて行動しないのは本末転倒である。だから失敗を前進する仕組みのなかに組み込んでいかに致命傷にならないかという観点で行動様式を設計していくほうがはるかに生産的なのだ。

 

 

失敗にも「失敗のハインリッヒの法則」とでも呼ぶべきものが存在しています。企業のケースでたとえるなら、新聞で取り上げられる大きな失敗がひとつあればその裏には必ず軽度のクレーム程度の失敗が29は存在し、さらにはクレーム発生にはいたらないまでも、社員が「まずい」と認識した程度の潜在的失敗がその裏にはかならず300件はあるわけです。

(略)大きな失敗が発生するときには、必ず予兆となる現象があらわれます。ハインリッヒの法則に従えば、ひとつの大失敗の裏には現象として認識できる失敗が約30件はあり、その裏には「まずい」と感じた程度の失敗とは呼べないものも含めて300件もの小失敗があるからです。

 

仕事である小学校に調査にいったときに職員室に「ヒヤリ・ハット」集というものが置かれており、大事故ではないまでも教職員や生徒が気づいた注意すべきポイントがまとめられていた。こういう未然の策をきちんと講じている組織が長期的な安定と信頼を手にするのだろうなということを実感したわけである。

このような「失敗−とくに小失敗」を利用するような考え方は「β版思考」とでも呼ぶべき方法論で、あえて小さくスタートし、小失敗をたくさんしておきそのフェーズで穴を防ぐことによって、大きくスケールしたときの大事故を防ぐ手立てになっている。ハイリスク・ハイリターンと言われるが、ローリスク・ハイリターンの作り出し方はこのあたりに隠れていると個人的には考えている。「小さく生み出し、穴を塞いでから大きくする」。

 

 

*****

 

企業や社会ではお題目のように「新しいことに挑戦せよ」というメッセージが発信されているが、本来的にはそれとセットで「失敗を許しましょう」というメッセージがなければならないのである。が、世間にはそんな慈悲などないので自分と仲間のあいだでまずは失敗に関するリスクヘッジとセーフティーネットをつくることから始めるのがいいのかもしれない。

 

おしまい

 

文献リスト

・『失敗学のすすめ