散文

心は一生「非モテ」のままで。

「非モテ」というと、馬鹿にされ、蔑まれ、害悪とまで言われる。

それは、男からも、女からも、そうである。

「非モテ」たちは、想像力が間違った方向に豊かである。

それゆえに、やはり、馬鹿にされ、ネタにされる。

 

ただ、私は、非モテとは「溜め」だと思うのだ。

 

Mr.Childrenの『星になれたら』という曲の中にこんな歌詞がある。

”長く助走をとった方がより遠くに 飛べるって聞いた”

 

 

非モテであることは、人生に「溜め」をつくることだ。
そして、その「溜め」はいつか、圧倒的創造力となって爆発する。

クリエイターやイノベーターというのは、ものすごいエネルギーを偏狭な対象に詰め込む。
「どうしてそこまでこだわれるの?」というくらいの熱量で、対象を愛する。
これは「非モテ」の特徴そのものである。

思春期に「非モテ」だった自分も、ナンパや恋愛工学を通じて、なんとか人並みにはモテるようになった。
その結果、念願だった生活が手に入った。
念願の生活とは、「女性のことにあれこれ悩まなくていい生活だ」


・気になる子からLINEがこなくても、死ぬほど落ち込まなくてもいい生活。

・セックスがしたくてしたくて夜中に風俗系サイトを巡回しなくてもいい生活。

・繁華街を歩いていたら、娼婦に勧誘されてぼったくられなくてもいい生活。

彼女やセックスフレンドが複数人いればとりあえずこういう暮らしからはサヨナラできる。

一方、モテを手に入れたからといって、毎日毎日、とっかえひっかえで女を抱く、酒池肉林のような生活には特に惹かれなかった。

むしろモテ出すと、逃げる言い訳が多くなる。

「女の子とデートだから」

「家でごはんをつくって待ってる子がいるから」

などという理由で、非モテ時代にはできていた「『どうしてそこまでこだわれるの?』というくらいの熱量で、対象を愛すること」ができなくなっていく。

これは、自分自身を”コモディティ化”させてしまう大きな罠だと思っている。

みんなができるコモディティな仕事には価値はなくなっていく。
誰でもできることに値段はつかなくなって、Fetishism的なこだわりに価値が認められていく方向に時代は動いている。
だから、これからの時代、非モテ的想像力&創造力が価値を持つようになっていくだろうと考えている。

何かに対してキモいと思われるほどに、こだわれること。
バカにされるほど、何かを愛すること。

恋愛工学では悪手とされている「非モテコミット」は、相手が、概念や数字の場合、コモディティから抜け出すための秘策として実は機能する。

仕事、音楽、芸術、ボディメイク、非モテコミットしている人ほど、突出した成果を出すのである。
「あいつは頭がおかしい」と、バカにされるくらいやってみよう。

 

そう。心は一生「非モテ」のままで。

 

 

 

Forkyに見る新時代のメディア・コンテンツ論

モテたい男のデートコースマガジン・Forkyというウェブメディアはご存知でしょうか。

2017年4月末にローンチされ、すでにかなりのPVを稼いでいるようで、ちなみにこのメディアのなかに私自身も記事を書いています。Forkyのコンセプトは以下のようなものです。

総フォロワー100万人以上のインフルエンサーが執筆・監修する男性向けデートコースメディア。『Forky』とは、“男性の魅力(デートのエスコート力)を上げて大好きな彼女を作れるようになる”をコンセプトにインフルエンサー及び恋愛に精通する方たちの提案するデートコースを紹介するサービスです。

■サービス特徴
(1)1軒目・2軒目・3軒目と点ではなく線でのデートコースを紹介
(2)総フォロワー100万人以上のインフルエンサーが執筆・監修
(3)各界の著名人による男性の魅力が上がるためのコンテンツの寄稿・対談など

Forky(フォーキー)
公式WEBサイト公式Facebook公式Twitter公式Instagram

(プレスリリースより引用)

特筆すべきポイントはライター陣がプロのライターではなく、インフルエンサーであるという点でしょう。ホリエモン・MB氏・はあちゅう・暇な女子大生・萩原清澄氏など界隈の錚々たるメンバーが顔を連ねています。これは2016年末話題になったwelq等のキュレーションメディアとは一線を画す特徴だと言えます。物書きを生業にするライターではなく、多くのフォロワーを有するインフルエンサーを記者に利用する。これの意味することは何でしょうか。いくつかのブログ記事を通して考察してみます。

 

「メディア>コンテンツ」時代の終わり

以下に引用するのはキングコング西野氏が読売テレビの収録に対してブチ切れて帰ったと言われるエピソードについての本人による記述です。

今回の読売テレビさんのロケのように、時々問題になっているのが、その瞬間に垣間見える「(タレントを)出してやっている」「(店を)取材してやっている」というテレビ側の俺様姿勢。一昔前は、放送局や新聞社の力を借りないとマス(大衆)に向けて、エンタメや情報を届けることができなかったのですが、今は、個人がマスメディア化し、お客さんとダイレクトに繋がれる時代になり、ニュースを自分で発信できるようになったので、テレビと個人がウィンウィンの関係でないと、テレビに出演する理由がなくなりました。テレビが「悪戯に煽って、感情を逆撫でし、不用意な発言を誘発させて、その部分だけを刈り取って電波に流す」という下品な技を決め込んでくるのなら、ハナからテレビを排除できる時代になったわけです。史上最もSNS親和性の高い大統領、ドナルド・トランプの言葉を借りるなら、「マスコミを迂回して声明を表すことができる。そうなれば自分が発言にこめた地味がキープでき、マスコミがこれを歪曲するのを我慢せずにすむ」です。スゲー簡単に言うと、「マスコミを経由する理由が昔ほど無くなった」というところ。今回、読売テレビさんは、時代がこのフェーズに移ったことを踏まえていなかったのでしょう。

【キンコン西野】収録中にブチギレて帰った後の整理より

西野氏はマスコミという言い方をしていますが、彼の言うマスコミとはすなわちマスメディアのことです。彼のなかでは明確にメディアとタレントは独立・対等の関係であることが明言されています。「そんなの当たり前じゃないの」と思われるかもしれませんが、マスメディア(特にテレビ)とタレント(事務所)は持ちつ持たれつの関係を続けてきました。ミュージックステーションには必ずジャニーズ枠があるし、レコード大賞の受賞者は政治的な理由で決まっていたりするわけです。それはタレント側からすると、テレビに出ること、CMに出演することが「おいしかった」からなわけで、そしてテレビ側からすると、人気タレントを擁する事務所に貸しを作っておくことがやはり「おいしかった」わけです。しかし西野氏は個人がマスメディア化した結果この関係は終焉してしまったと述べています。

実はこの話をまったく別の文脈で述べている記事があります。メディアコンサルタントの境治氏のコラムです。

 

誤解を恐れずに言えば、これまでの業界はメディアの価値を異常に高めて守ってやってきたんです。そこを変えないといけない。いやメディアの価値が高いのはいいことですけど、コンテンツの価値を高めることでメディアの価値を高める、そういう哲学になってなかった。メディアの価値を高めるために、コンテンツを安く使っていただけなんです。テレビ局や大手代理店の給料が高くて制作会社の給料が安いのは、その現れです。逆だっていいはずなのに、なぜか制作会社は「おれたちプロダクションですからね」と最初から決めつけちゃっている。大事なことを決めるのはテレビ局や代理店の人たちだと思い込んじゃってる。テレビ局や広告代理店の中でも、制作の人たちは一時期ちやほやされても、結局はあまり偉くならない。そりゃあそうですよ、だって業界構造が、コンテンツよりメディアを重視しているのだから。

去年、これまでのパラダイムが終わったとしたら、「メディア>コンテンツ」の構図も終わったのだと思うのです。「コンテンツ>メディア」になったはずです。業界中の会社が労働基準局にビクビクしながら残業を制限し、足りない人手をどんどん補っているのは、大きくいうとコンテンツが主の時代になったんだと思います。関係ないようで、密に関係していることだと思う。

「コンテンツ>メディア」という把握は少し違うかもしれません。「コンテンツ=メディア」なのかも。対等になったという意味ではなく、コンテンツそのものがメディアになった。だからコンテンツそのものの価値がぐんと高まる、ということですが。それは裏を返すと、メディアだけでは価値を持てなくなってきた、ということでもある。

時代は結局、変わるべき方向に向かっていく。十数年かけての方向転換の「転換点」が、今なのだと思います。

Adver Times 境治氏のコラムより

境氏は広告業界の方だそうですが言っていることはキングコング西野さんと同じです。メディアとコンテンツ(=タレント)の関係が反転したというのです。もっと言うとメディアは存在意義を失い、コンテンツそのものがメディアの地位にとって変わったといっても過言ではありません。だって、ローラさんのインスタグラムのフォロワーだけで450万人いるわけですから、これだけで十分マスメディアです。女性誌でいちばん部数を稼いでいる『VERY』でも30万部なんですから、トップタレントはすでにマスメディアよりパワーがあるといっていいのかもしれません。

企業より個人の時代

私はコンサルティングの仕事上、企業メディアの運営・改善にも関わることがあるのですが、たいていメディア運営の経験のない素人の担当者はYahoo JAPANのような壮大なポータルサイトを作ろうとします。化粧品メーカーなら化粧品や美容にかかわる情報を一手に集めることであらゆる層を集客しようという魂胆です。その発想は十分理解できるのですが、まあ、時代遅れです。何十億の予算がないかぎりうまくいかないでしょう。

クロネコ屋@アフィリエイターさんは、この点について独自の分析を述べられています。

DeNAのキュレーションメディアの問題によって、少なからず読み手であるユーザーも『誰が書いているのか』を意識するようになってきていると思います。クラウドワークスで集められた1円ライターが仕事で書いているのか、それとも個人が趣味、あるいは善意で書いているのか。同じような内容のコンテンツでも、前者と後者では読み手の印象も大きく異なりますよね。また、書き手としても匿名性・客観性を意識したコンテンツは、どうしてもキュレーションサイトや大手企業のメディアに押しつぶされてしまいます。企業の運営するメディアは、資金が豊富ですから記事数では勝てません。そうなると、必然的に差別化をするために『独自の視点』『自分なりの解釈・意見』を書いていく必要が出てきます。私はここらへんを意識してコンテンツを作っていたのですが、最近はそれすらもリライトされたり、差別化の要素として弱くなってきてるな…と感じています。もちろん専門知識をぶっ込んで、リライトを難しくする事は出来るのですが、例えば『年収1000万の手取りはいくら?』みたいな単純な計算で出せるコンテンツはすぐ真似されます。おまけに、オリジナル記事よりコンテンツを充実させて上位を取られます。こういった強者の戦略にどう立ち向かえば良いのか…と考えた時に、個人を前に出してブランド化して読み手との距離を縮める戦略が一番無難ではないかと思ったのです。

これからのSEOはブランド化された個人ブロガーが強いと思う理由』より

Webというフラットな世界で個人が戦っていくときに資金力がないのであれば「ブランド化された個人」としてサイトをつくるべきだというメッセージです。私はさらに、企業でもそうすべきであるという点をさらに付け加えたいと思います。一消費者として今時新しいポータルサイトなんていりません。Google先生とYAHOOとFacebookとtwitterがあれば情報は事足ります。それにプラスして欲しているのは好きなブランドor個人に関する情報くらいなもので、私自身もクソ情報を垂れ流しているまとめサイトなどは即ブロックします。

少なくともこのブログを読んでいる方は自身のtwitterアカウントやFacebookアカウントを持っている方が多いと思うのでその運用に関してもひとつの方針を持つのがこれからの時代、有益ではないかと思うのです。

クロネコ屋@アフィリエイターさんのこのフレーズは私の心に響きました。

『Twitterで収益化!とまでは行かずとも、自分自身の魅力を伝えるチャネルは今後のために持っておいたほうが良いですよ』

今後、社会や世界がどうなるかはわからないですが、確実に個人の価値や魅力・芸に対して対価が支払われる時代にシフトしていきます(それがForkyなんですが)。会社員3000人を抱えて作ったコンテンツが、Youtuber1人がつくったコンテンツに負けてしまう世の中なのです。だったら個人の芸と換金技術を高めるしかないでしょう。

私がもろもろのサロンを運営しているのもその変化に備えるコミュニティが少なすぎると感じているからです。というわけで「Forkyに見る新しい時代のメディア・コンテンツ論」でした。

おしまい

※ちなみに5月の副業ラボのツイキャスはこのあたりの話をしようと思います。

なぜ地方ではドキッとする美少女がコンビニバイトしてるのか

ホイチョイ・プロダクションズの指南役さんのTweetを見て考えた。

 

 

というのも以前地方に出張した際、まったく同じことを思ったからだ。以下はこの問いに対する自分なりの考察である。

地方では中学校のヒエラルキーが継続する

バブル崩壊以降、失われた20年を経て地方には仕事がなくなった。

●地域別・産業ごとの労働生産性

 

グラフは産業ごとの労働生産性を表したものだが青い棒線が三大都市圏であり、農林水産と建設業以外は人口に少なくなるのに比例して規模がか細くなっていく。(出典:財務省2015)

首都圏・中京圏・近畿圏以外はとにかく仕事が無い。もちろん、飲食・介護・建設土木・観光業に関しては存在するわけだが、いわゆる都心エリートがやるような経営企画・開発・コンサル・広告・メディアのような仕事はほとんどなく、電機メーカーや自動車メーカーの現地採用に関しても安定職として競争倍率は高く、給料は低い。(しかもSHARPやPanasonicのようにもはや現地採用は安定職ではなくなっている)

地方で学歴エリートがついてペイする職業とは、市役所や県庁、地方銀行・地方紙、ローカル局などに限定されていくわけだ。ただこれは実数としてかなり少ない。地方都市のキャバクラなどに行ってみて話すと大体は地元の建設関係や不動産関係の社長が大口顧客であり、彼らは学歴エリートではなく、結論、地方では秀才エリートの居場所はあまりなく、存在感もほとんどないわけだ。

これとまさに相似形なのが地方の公立中学である。勉強のできる優等生の居場所、存在感はほとんどない。幅を聞かせているのは先生に目をつけれられながら「ワル」をやっているヤンキーたちである。マイルドヤンキーのアルファメイルなので「ワルファ」と呼ぼう。彼らの世界の支配律を的確に描いた名エントリを以下にご紹介する。

 

地方では、「高学歴の世界」の住人の密度が薄いので、地元国立大の附属小学校に行けるとかの特別な例外を除いては「低学歴の世界」に混じり込まなければいけません。そして、その「低学歴の世界」とうまく付き合えなかった多くの「高学歴の世界」の子弟は、いじめと言う名の社会的制裁を受け、あるいは高学歴の世界の住人としての努力を継続することができなくなってしまいます。結果、少なくとも学力とかを通じては「高学歴の世界」に復帰できなくなります。お父さんが一橋出てる高級サラリーマンなのに娘が皆謎の地元短大卒とか東大出てる高給サラリーマンなのに息子が高卒ニートとかよくあります。もちろん、その子どもたちの価値観は、「低学歴の世界」のそれです。

−常夏島日記「地方都市で、低学歴と高学歴の世界が交わるとき」から引用

 

地方都市では、大都市圏に存在する「高学歴だからドヤ顔できる」というルールは存在せず、ワルファを頂点としたヒエラルキーが中学以降そのまま継続するのだ。

ちなみに、大都市では社会人になった後、仕事や社会的地位によってヒエラルキーに変化が起こる。中学高校でモテていた男でも勉強をサボって大学受験・就職活動をうまく乗り越えられなかったりすると、25をすぎるとモテなくなってくる。

 

 


地方では人材の流動性が低くソーシャルネットワークが固定化されるため、一度ボスになると下克上が起こらない限り、その地位を脅かされることも少ない。中学の時、パシリにされてたやつは、ずっとパシリなのである。パシリにとっては最悪な環境である一方、ワルファにとっては非常に居心地のいい社会構造である。そしてこのヒエラルキーは「モテ」にそのまま影響を与え、地方社会の人口構造を形成しているのである。以下はあらゆる一夫一妻制の社会に適用できる男女の夫婦形成を予測する計量経済学モデルである。

 

10人の男と10人の女がいたとする。
まず、いちばんもてる男に、女が3人くらい寄っていく。
2番目にもてる男も、負けじと2人くらい持っていく。

したがって3番目の男は、6番目の女と一緒になる。
以下、4番目の男は7番目の女と、
5番は8番と、6番は9番とカップルになる。
しかし、残る7番目以降の男にもプライドだけはあるので、
最後に余った10番目の女など誰も相手にしようとしない。

さて、上位の女を独占したNo.1&2のモテ男も、最終的には
一人を選ばねばならないから、ここで3人の女があぶれる。
でも、すでにモテ男と付き合った経験のあるこの3人の女は、
いまさら下位の男と一緒になろうなどとは考えない。

こうして、互いに性質の異なる独身男と独身女が残る。

  男  女
1 ○  ○
2 ○  ×
3 ○  ×
4 ○  ○
5 ○  ×
6 ○  ○
7 ×  ○
8 ×  ○
9 ×  ○
10 ×  ×

以上、2chからの引用 

 

これに従うと、男というのはヒエラルキーの上から順に、魅力的な女性とつがいになっていく。そしてヒエラルキーの下位は残念ながら子孫すら残せない。また女性はヒエラルキー上位でも競争に負けてしまうと結ばれなくなってしまうのだ。

大都市では、30歳前後のモテヒエラルキーが適用された結果、「有名企業の仕事のできそうな男」が最も婚活市場ではモテている。一方、地方では、中学のモテヒエラルキーが持続している。この結果、ワルファたちがモテ上位の女性たちとペアとなり子孫をつくることとなる。都会のヒエラルキー上位層に比べワルファたちは所得も家柄も特段よくはないので子どもたちに対しては環境や教育に投資できない。むしろ傾向的に、よいパパや旦那ではなく外で遊び歩いたり、家にカネを入れずに離婚してしまうワルファも多い。その結果、ワルファと地方美人の遺伝子を引き継いだ息子・娘は地方経済の中でも時給の高くない場所で小遣い稼ぎをしているわけだ。大都市では外国人留学生が働いているようなコンビニ・ファストフード・居酒屋などに、日本人の美少女が働いていたりするわけである。

指南役さんの疑問に対する私の考察は以上である。

 

ただせっかく考察したので、これをベースにして大都市に男子が地方美女を一本釣りする戦略を描いてみよう。

 

【おまけ】ワルファから美女たちを奪え!

ここに地方恋愛戦略に関して非常に参考になるエントリがある。

 

 

都道府県別に18歳から39歳までの男女の人口比を見てみると鹿児島が女性100人に対して男性が91.14人となっており、さらに奈良、長崎の順で男性が少ない地域となる。もう少し全体を見渡してみると九州や関西、北海道において相対的に女性が多く、関東や東北、中部では男性が多い。どうやら女性の割合は北海道を除き西高東低の傾向があると言えそうだ。(略)個人的な経験で恐縮だが、僕が札幌に住んでいた時は、恋愛工学を実践するまでもなく確かに女性からの引き合いが相対的に強かった。これは僕の魅力どうこうよりもやはり男性が少ないという外部要因が働いていたように思う。

−つかさの自由帳『男なら西を目指せ(札幌でも可)~恋愛地理学のススメ~

 

ここにもあるようにそもそも人数比として地方都市は明らかに女性過剰となっている。これはワルファ以外の男性の多くが地元に残っても色んな意味で美味しくないので大都市圏に行ってしまうことから起こっている状況だ。

つかさ氏の抽出によるとそれが顕著な地方都市として鹿児島市・松山市・福岡市・神戸市・札幌市・熊本市・広島市というのが上げられている。彼ら彼女らを一本釣りするノウハウに関しては今後、「恋愛サロン」や「週刊恋愛サロン」の方でプロジェクト化し検証していきたいと考えている。

具体的には考察で考えられるような地方都市の美女にどのようにアプローチし、どのようなプロトコルを使用して恋愛関係や婚姻関係を築いていくかの方法論になっていくと思われるので、乞うご期待。

 

 

 

卒業アルバムのこと

うちの母親は小学校の教師なのだが、あるとき卒業アルバムをうちに持って帰ってきた。私は小児性愛ではないので小学校の卒業アルバムにそこまで興味はない。どちらかといえば高校くらいからは興味が湧く。

何を言わせるか。

とはいえ暇だったのでインスタントのくそまずいコーヒーとあたりめを噛みながら卒業アルバムを開く。10代前半の可能性に満ち溢れた顔が並んでいる。賢そうな顔、阿呆そうな顔、絶対変な男に引っかかりそうな顔、非モテ。

気づくのは人生って10代前半でだいたい決まっているんじゃないかということ。自身が当事者であるときは気づかなかったが卒業アルバムの顔を見るとありありとそいつの社会的ポジションがわかってくるのである。ぜひあなたも小学校の卒業アルバムを引っ張り出してそいつのその後の進路と顔の相関をとってみてほしい。と、終わりのほうにあるの教職員のページ。教職員からのメッセージが並んでいる。

「失敗は成功の母である」「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」「昨日から学び、今日を懸命に生き、明日への希望を持て。大切なことは問うことをやめないことだ」

なんだこれは。他人の言葉だらけではないか。これから羽ばたくであろう10代前半の子供たちに対しての教職員からのメッセージは、アメリカの偉人や科学者のセリフを翻訳したものに始まり、幕末の志士や戦国武将など、名言・格言を引用したものが思ったより多かった。

「失敗は発明の母である」山田芳雄

みたいに書かれているが、山田の芳雄はその言葉を考えついたわけではない。しかしなぜかすごいことをやり遂げた人間みたいになっている。なかなかのテクニックである。

しかしなぜ人の言葉を借りて自分を語るのだろう。そのモチベーションの源泉を知りたい。考えよう。

まず一つは同化だ。「アメリカをおさめた某大統領くらいのスケールで」とかいう気概のアピールと、なんとなく教養がありそうなアピールができること。

次に啓蒙。「こんなすごいことを言うてる人がいるからもっと知って!」というエバンジェリスト。自らの存在を媒介としてメッセージを広めている。新興宗教などの信者に多い。

同化と啓蒙で8割は行きそうだが、それ以外だと、「自分の言葉で語るのがめんどくさい、こわい」というのがあるだろう。これは潜在的に多いと思う。

まず言い逃れができる。人の言葉を引用しまくることによって、「あなたはいついつどこどこでこういうことを言いましたよね」と国会で追及されたとき、「それは私の発言ではなく、板垣某氏の引用であります」とひらりマントでかわせるわけだ。これはお得。発言内容の正誤や妥当性について追及されても自分の落ち度ではなく発言者の落ち度になる。やはりお得。

一方、「自分の言葉」問題について真摯に向き合おうとすればするほどドツボにはまることになる。

私は仕事で著作権問題などをいろいろやってきて実感しているのだがコンテンツ業界において100%オリジナリティでやることはもはや不可能である。結局それは似ている似ていないの問題ではなく意図的にパクったかそうじゃないかという問題に収斂していく。パクりかそうでないかは、結果ではなくて、プロセスの問題なのだ。

という前提においては、パクリを断罪する人は真に聖人でないといけない。

ひとつの理由としては、普通に生きている限り、無意識のうちに既存の良質なコンテンツの文法はインストールされてしまう。もうひとつは、世に受け入れられているコンテンツは普遍的な構造を持つがゆえ受け入れられるコンテンツを作ろうと思えばそれをなぞることが必須だからだ。

あなたの考え・言葉・主張は誰からもパクっていないと言えるのか。パクリ・オマージュ・パロディといろいろあるが、著作権について法律的な線引きはきちんと存在しているし、問題が生じれば法にのっとって争えばいいと思う。

だからパクリパクられ論を戦う人にアドバイスできるとしたらそれは表現物の類似度を証明するよりは、パクった人とパクられた人の損得や名誉毀損を軸に考えたほうがいい。結局人類が言語を使って思考している限り何がパクリで何がパクリじゃないかを決めることは無理ゲーなのだ。

それはそうと、他人の言葉を使って「偉人のようになりたい」と言っている人間については、もっと低いレベルの意味で頑張ったほうがいいじゃないかと私は思う。なぜなら、彼は、既出のキャラクターをなぞることを自ら名乗り出ているわけで、パクリ以前の問題であるからだ。

でもね「米国大統領の某みたくなりたいっす!!」みたいなことを言うとやる気があると思われるらしい。

なんだ世の中単純だな。

この厳密性と単純性のあいだをうまくつくことができればきっと人生はイージーゲームになるはずなので今後検討していきたいっすわー

2031

セミがこれでもかというくらいに鳴き叫んでいる。

熱帯のような昼下がり、縁側の庇の下でタオルケットを敷いて横になる。

自分を大切に育ててくれた両親は10年前に死んで、いっしょにバカ騒ぎしていた親友のうちの数人も病気で死んだ。金がかかるといって病院へいかなかったので、あっと言う間だった。電気料金は馬鹿みたいに高くて、5年前に買い替えたベトナム製のエアコンはほとんどつけない。

美しかったはずの妻の顔は皺だらけになり、最近では大声で話さなければ振り向かない。今で通販番組ばかりをみている。民放はあるときから通販番組しかやらなくなった。映画とドラマの再放送と通販番組の無限ループ。NHKだけが、新鮮なコンテンツをかろうじて出し続けてくれる。買い物にはいかず、すべてオンラインですませてしまう。

暑い。汗がにじむ。セミの声が脳みそを浸食されていくような気分だ。のどが渇いている。水を飲んでもどうせまたのどが渇くんだ。いっそこのままひからびてしまってもいいかもしれない、と思う。だれもきっと悲しまない。不快で、退屈な毎日の繰り返し。ただぼうっとしているだけの。

大切にしていたはずのものは、ほとんどすべてなくなってしまった。細かい砂のように指の隙間からさらさらと零れ落ちてしまった。一瞬だった。気づいたときには、身動きがとれなかった。もしかしたら、大切にしていると思いこんでいただけで、実際は、していなかったのかもしれない。仕事をやめ、子どもたちがいなくなり、友達と会うのもおっくうになり、妻とどこかへでかけることも少なくなった。生活に楽しみはない。使い物にならなくなった性器をぶら下げて、私はトイレに向かう。廊下に寿司の皿が重ねて置いてある。2週間ほど前に息子がマレーシアからこちらに帰ってきたときに、とった出前の寿司だ。あの日はすこし楽しかった。もっといて欲しかったが、他にも用があるといって5時間ほどで帰ってしまった。一瞬のにぎやかな時間の後に残されたのは、それ以上の煩わしい退屈だった。

別に自分の人生に後悔をしているわけではない。そのとき、そのときに応じてそれなりの努力をし、ベストな選択肢を選んできたつもりだ。ただ、行き着いた先が、広大な退屈の砂漠だったというそれだけの話だ。もしかしたら、先急いで歩かなくてもよかったのかもしれない。道草をゆっくり楽しんでいればよかったのかもしれない。広大な砂漠にたどり着くのがわかっていれば、道中をもっと面白がれたかもしれないのに。昔の自分に教えてやれるとしたら、そのことぐらいだろうか。きっと若い自分は聞かないだろう。ジャングルを抜けることに必死だったのだから。

気づくと夕方だった。セミの声は、聞き慣れない鳥の鳴き声に変わっていた。鬱蒼と茂った森が目の前を覆った。ここはどこだっけ?どこかのジャングルだということだけはわかった。ふと背後に目をやると、黒い肌をした子どもたちが樹木に囲われた池で水浴びをしていた。

*****

2011年くらいに20年後くらいの未来予測を小説風に書き記してみた文章。たぶん1960年生まれくらいの人が主人公なんだと思います。2017年だと57歳で定年近いおじさんですね。日本が経済大国でなくなってどんどん格差が広がるのと、医療費・福祉の削減、あとは共同体の断絶みたいなことを浮かべながら書いています。

ものごとを小説風に書くというのは思わぬインスピレーションを得ることができます。スマイルズ代表の遠山正道さんが三菱商事時代にスープストックを構想した企画書も小説風のアプローチで書かれていたりします。アイデアがなかなか出ないときや発想を飛躍させたいときにやってみるのもいいと思います。

おしまい