村上春樹と恋愛工学 『女のいない男たち〜独立器官』書評

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「紳士とは、払った税金と寝た女性について多くを語らない人のことです」

 

ある日、この一文を見かけて検索してみたら、小説の一節だった。
村上春樹の『女のいない男たち』という短編集のなかの『独立器官』という小説だ。

なぜ『独立器官』というタイトルがついているのかと言えば、この小説の後半の「女性についての考察」が由来となっている。
名文なので引用してみる。

 

すべての女性には、噓をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、というのが渡会の個人的意見だった。どんな噓をどこでどのようにつくか、それは人によって少しずつ違う。しかしすべての女性はどこかの時点で必ず噓をつくし、それも大事なことで噓をつく。大事でないことでももちろん噓はつくけれど、それはそれとして、いちばん大事なところで噓をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音ひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手におこなっていることだからだ。だからこそ噓をつくことによって、彼女たちの美しい良心が痛んだり、彼女たちの安らかな眠りが損なわれたりするようなことは──特殊な例外を別にすれば──まず起こらない。

 

恋愛工学を一通り理解している男にとってはすんなり納得の行く説明だ。
『ぼくは愛を証明しようと思う』で大空電気の長谷川玲子が、実は婚約していたことを隠して主人公と二股をかけていた。そしてそれがバレると何食わぬ顔で強引なセクハラだと嘘をついた。
まさにそんな感じ。

 

私の経験と重ね合わせても、どんな女も平気で嘘をつく(あるいは本当のことを言わない)。
そんな女性の本質的な生態を、複数恋愛する独身貴族の視点から描いたのがこの小説。

 

主人公である「僕」は物書きで、渡会医師とはジムで知り合った。彼は52歳になるがこれまで結婚したことはない。
渡会は六本木で、父親から引き継いだ「渡会美容クリニック」を経営している。渡会にとって、同時に二人か三人のガールフレンドを持つのは当たり前のこと。彼のクリニックには優秀な男性秘書がいて、渡会の込み入ったスケジュール(女性関係も含む)を調整してくれている。

 

というのがこの小説の設定だ。
この渡会という医師がなんとも恋愛工学をマスターしてしまったオジサンの姿と重なるのだ。
たとえば、

決して美男とは言えないが、顔立ちはまずまず無難に整っているし(自らが整形手術を受けようと思ったことは一度もない)、クリニックの経営はきわめて順調で、高い年収を得ている。育ちも良く、物腰も上品で、教養もあり、話題も豊富だ。頭髪もまだしっかり残っているし(白髪は少し目立ち始めたが)、あちこちに多少の余分な肉はついてきたものの、熱心にジムに通って若い頃の体形をなんとか維持している。

 

渡会にとっては女性たちと食事を共にし、ワインのグラスを傾け、会話を楽しむこと自体がひとつの純粋な歓びだった。セックスはあくまでその延長線上にある「もうひとつのお楽しみ」に過ぎず、それ自体が究極の目的ではない。(略)…そんなわけで女性たちは自然に渡会に心惹かれ、彼と共にする時間を心置きなく楽しみ、その結果彼を進んで受け入れることになった。これはあくまで僕の個人的見解だが、世の中の多くの女性は(とりわけ魅力的な女性たちは)、セックスにがつがつしている男たちにいい加減食傷しているのだ。

 

セックスに飢えて女性にがつがつしている男ほどモテない。
だからこそ「性的な眼差し」をいったん捨て相手の内面を見ようとしなければいけない。
これなんかはステルスナンパの教義にも通じている。

 

 

 

こうやってモテるようになると、だんだんと女性は離れていかなくなる。
かといって結婚をしてしまうと自由な複数恋愛はやりにくくなるから、うまい具合の距離感の関係を保つ必要がある。

結婚を前提とした男性との交際を求めている女性は、どれほど魅力的な相手であれ、最初から退けるようにしていた。その結果、彼がガールフレンドとして選ぶ相手はおおむね人妻か、あるいは他に「本命」の恋人を持つ女性たちに限られることになった。そういう設定を維持している限り、相手が渡会と結婚したいと切望するような事態はまずもたらされない。もっとわかりやすく言えば、渡会は彼女たちにとって常に気楽な「ナンバー2の恋人」であり、便利な「雨天用ボーイフレンド」であり、あるいはまた手頃な「浮気の相手」だった。そして実を言えばそのような関係こそが、渡会が最も得意とし、最も心地良くなれる女性とのかかわり方だった。

 

しかしそのようにしてめでたく神聖な結婚を遂げた女性たちのおおよそ三分の一は、何年かあとに渡会のところに電話をかけてきた。そして明るい声で「ねえ、渡会さん、よかったらまたどこかに遊びにいかない?」と誘った。そして彼らは再び心地よい、かつあまり神聖とは言いがたい関係を持つようになった。気楽な独身者同士から、独身者と人妻という少し込み入った(それだけにまた喜びの深い)関係に移行したわけだ。

 

この心地よい関係を保つことは実は女性にとっても心地よいため、他に愛する男ができてもまた戻ってくることが多い。

冒頭で述べたように、何人抱いたとかどれだけ稼いでいるという話はしない。プライバシーは墓場まで持っていく。

 

だから何人かの恋人を同時にキープしておくのは、彼にとってはあくまで自然なことであり、とくに不誠実な行為には思えなかった。しかしもちろんそんなことは相手の女性たちには黙っておく。できるだけ噓はつかないようにするが、開示する必要のない情報は開示しないでおくというのが、彼の基本的な姿勢だった。

言わなくていいことは言わない。これは個人として情報戦を戦うときにも非常に有用な考え方だ。

こんなモテ男のお手本のような渡会だが、ある日思いもよらず深い恋に落ちる。

彼が恋に落ちてしまった相手は16歳年下で、結婚していた。5歳の子供が一人いる人妻だった。

ここから始まるまさかの非モテコミットの物語。
私が感じたのは、彼の恵まれた境遇と、独身子無し52歳というタイミングが、非モテコミットという悪魔を呼び寄せてしまったのだと思う。

 

このあたりは実際に読んで確認していただきたいが、スマートな人生に突然起こる思わぬ落とし穴の物語として具体的でかつ有用で面白く読める短編であった。

 

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